米国アトランタ近くの公園で撮影
(2018年)

1.奨学事業による留学で学ばれた内容は何ですか。

米国の障害者支援に関する基本法的な存在である法律、Americans with Disabilities Act(ADA:アメリカ版障害基本法 – 聴覚障害者の他全ての障害者を対象とする -)についての理解と見識を深めました。

2.奨学事業による留学を終えた時に、帰国せずに米国生活を続けることを決めたのはどういう理由でしょうか。

ギャローデット大学では、ADAも含めて、米国の障害者に関する法律や社会保障の制度について学び、修士号を取得しましたが、更なるステップアップの為には、引き続き米国で、その知識を活かせる仕事に就き、ソーシャルワーカーとしての経験を積み重ねることが最善という判断に至ったからです。

3.今までに米国でされたお仕事の内容は何ですか。

ギャローデット大学のソーシャルワーク修士号を取得した後、ペンシルベニア州、フィラデルフィアの郊外で精神障害や知的障害を持つ聴覚障害者ためのサービスを提供するPAHrtners Deaf Servicesに入社し、ケースマネージャーとして2年間、外来療法士として5年間、そして、ケースマネージャーのスーパーバイザーとして1年間、計8年間、勤めました。そして、ソーシャルワーカーとしてさらにスキルアップしたいと思い、昨年の1月からジョージア州、アトランタのCaring Worksで、薬物依存症を患うホームレスの聴覚障害者(男性)を対象とするASL(アメリカ手話言語)セラピストとして彼らを支援する仕事に携わっています。

4.奨学事業による留学終了から現在で何年目になりますか。

2009年5月に奨学金事業による留学を終えましたので、今年で10年目になります。

5.「グローバル人材」という言葉があります。私はきこえないグローバル人材を次のように考えています。共生社会に求められる人材像としては、(1)きこえない日本人としてのアイデンティティを確立していること、(2)外国の手話言語を含めて異なる言語を幾つか習得していること、(3)海外の様々な人と協調関係を構築できること、(4)国際的な視野に立って社会貢献するための知識と経験を備えていることです。この4つの条件それぞれについて、池上さんご自身はどのように自己評価されますか。一つ一つお話しください。

大杉会長のお考えに照らし合わせて自己評価させていただきますと、私は、すべての条件をある程度満たしていると考えます。ただ、4つ目の条件については今のところ米国でしか経験がありません。今後は、これまで得た知識と経験を米国以外の国においても生かせる機会や可能性を模索したいと考えていますが、地域により制度・民情・思想等が大幅に異なることを考えれば、私個人のフィールドをグローバルに広げる意味もさることながら、その地域に根差した人材の育成も欠かせないのではと考えています。

6.ADAを学ばれ、米国で10年の現場経験を積まれた中で考えたことをお聞かせください。
6-1.ADAによって障害者の生活が改善されたというのが一般的な理解ですが、きこえない人の生活について改善されたのはどんな面ですか。

例えば、裁判では必ずと言っていいほど手話言語通訳がつきます。医者の診察に際しても依頼すれば原則として手話言語通訳の手配をしてもらえます。障害者年金や福祉の手当てを申請するための手続きは、これも事前に予約すれば手話言語通訳を手配してもらえます。また、アメリカではビデオフォンという、テレビ電話リレーサービスがかなり普及していて、例えば病院の予約や銀行の手続きの際に人に頼らずに、自分で済ませることができ、その分日本に比べてろう者や難聴者の自立や社会参加が進んでいると言えます。個人的な事ですが私が学会に参加するときも、私の依頼により手話言語通訳がつきました。その反面、ADAが成立してから30年近くたとうとしていますが、まだまだ課題はあります。たとえば、ろう者や難聴者に対する精神保健面のサービスの提供、映画館における映画の字幕の普及、刑務所内収容者の情報アクセシビリティなどはまだ遅れています。その為にそれらの権利保障に向けて全米各地で訴訟が起こされています。

6-2.ADAによってきこえない人の生活が改善されたとして、きこえる人と同じように、きこえない人たちの中でも格差が大きくなったのではないかと思いますが、その点はいかがでしょうか。もしかして、池上さんが現場で支援している方々はADA社会の歪みによって生活改善を望めない状況にあるのではないでしょうか。

ADAの恩恵が全ての障害者に行き渡るまでには時間がかかり、また経験的な蓄積も必要だと思います。恩恵を受けられない、あるいは受けにくい環境にいる方々のニーズを満たすために、例えば今の私の現場では、重度の精神障害がありあるいは薬物依存症を患っている人を対象に支援を進めています。彼らはADAの存在自体を知らず、どの様にすれば自分の権利を守ったり主張したり出来るのかさえ全く分かっていません。彼らがそのための具体的な方法なり技術なり、すなわちセルフ・アドボカシーの要領を身につけられるよう、スタッフの私たちが、カウンセリング・セラピー、ケースマネジメント、ピアサポートなどの方法を通してサポートしています。

6-3.ADAによってきこえない人の生活が改善されたとして、手話言語通訳などの職に就くきこえる人の生活が安定してきたということも言えましょうか。

手話言語通訳者の技術、経験、雇用形態などにもよると思いますが、一般的に見て、手話言語通訳者の社会的地位は高く、社会保障もある程度確保されていると思います。

7.米国でお仕事をされる中で、現場ではASLを使うのが主であると思いますが、それでも英語を使う場面が多いと思います。ASLを流暢に使えないきこえる人とはどのようなコミュニケーションをとっていますか。池上さんのお仕事は極めてプライベート性の高いものですが、公的な電話リレーサービスを使う、外部の手話言語通訳者を使うということをされているのでしょうか。

クライアントやろうのスタッフとはASLがメインですが、きこえるスタッフで手話のできない人とは、筆談かメールでやりとりしています。また、僕の職場にはVRI(ビデオリモート通訳)が2台あり、状況に合わせて使っています。

8.今後について、池上さん個人のフィールドをグローバルに広げる意味とは具体的にどのようなことでしょうか。

ギャローデット大学やロチェスター工科大学など高等教育機関との連携を模索しつつ、精神障害のあるろう者や難聴者に対する支援についてさらに研究を深めたり、エビデンス(科学的根拠)に基づく実践ができるソーシャルワーカーの育成に取り組んだりしていきたいと考えています。

9.米国と日本は制度・民情・思想などが大幅に異なります。
9-1.ソーシャルワークの現場についてはどのように違っていると思いますか。

日本では、現場に関わる人の選考基準、職務内容が統一されていないような気がします。また、ソーシャルワーカーと手話言語通訳者の区別もきちんとされていないような気がします。手話言語通訳の養成プログラムや機関はあっても、ろう者や難聴者のためのソーシャルワーカーの養成プログラムや機関は、日本ではまだないような気がします。日本社会事業大学が手話言語による入学試験を始めたのはいいことだと思いますが、卒業後の、就職斡旋のサポートが気になるところです。米国では、ろう者や難聴者のためのソーシャルワーカーになるためには、手話言語ができることはもちろん、ソーシャルワーカーの修士号やクリニカルソーシャルワークの資格がなければ就職できません。また、米国では、ソーシャルワーカーと手話言語通訳ははっきり区別されて、手話言語のできる聞こえるソーシャルワーカーがカウンセリングを提供するときに手話言語通訳を兼ねることは職業規範上認められていません。兼務すればプロとしての仕事を全う出来るはずがないとの考え方が根底にあるようです。従ってろうの子どもと手話言語のできない親がカウンセリングを希望した場合、きこえるソーシャルワーカーが手話言語通訳を兼ねることで便利であるとの考え方はしません。このような場合は、ソーシャルワーカーが別途手話言語通訳を手配して、ソーシャルワークのプロであることの自覚しソーシャルワーカーの協会が定める職業規範に従って活動することになります。

9-2.そして、米国でできていて日本でできていないと思われるもの、逆に日本でできていて米国でできていないと思われるものがあればお聞かせください。

先に触れましたが米国では、ろう者や難聴者のためのソーシャルワーカーを育成するために組まれた固有のプログラムや機関があります。日本ではまだないと思いますが、いずれ検討される日が来ることを期待します。また、日本では、かなりのろう者や難聴者が社会福祉士や精神保健福祉士の国家試験に合格していますが、一般企業に就職するなど社会福祉や精神保健とは関係のない仕事をしている人が多いような気がします。この辺りは米国とかなり事情が異なり、国家資格を持っているろう者や難聴者の人材を積極的に活用出来る環境とか方法を考える必要があるのではと思います。米国でできていないと思われるものは現時点ではあまり思いつきません。

9-3.日本ではその地域に根ざした人材の育成はできていると思いますか。

地域のろう者社会による養成は(ろうあ者相談員など)できていると思いますが、将来的には、高等教育機関と連携してエビデンスに基づく実践ができるソーシャルワーカーの養成が必要不可欠であると考えています。個々人の意欲や好意だけでは限界があると思います。

10. 本事業は、留学経験を活かし、日本やアジア諸国のろう者社会で必要と思われる分野で活躍することを志すろう者・難聴者を支援するものです。池上さんは米国で科学的根拠に基づく実践を行うきこえないソーシャルワーカーとしての経験を学問と臨床の両方で確実に積んでいらっしゃることがわかりました。私は、ぜひ池上さんに日本やアジア諸国におけるきこえない人の社会参加に貢献していただきたいと思います。池上さん自身もその時期が近づいていると感じておられるのではないでしょうか。ただし、私はそのために池上さんが生活の拠点を米国から日本に移す必要があるとは言いません。これから10年あるとしたら、どのようなビジョンを持ってどのように計画されますか。つまり、池上さんの決意が聞きたいのです。はい、どうぞ。

博士号取得を目指してこれまで5年間、仕事と学業の両立に励んでまいりました。今はその目標を達成することができてうれしい気持ちと、両立の重荷から解放されてホッとしている気持ちで、正直なところ、先のことにまで気が回っておりません。ただ、博士号を頂いたということは、何か命題を極めたことを意味するものではなく次のステップに入る許可を頂いたものと考えております。今後も引き続き、臨床と研究の両輪で研鑽に励みたいと思っております。したがって、今後の10年もこれまでと変わることなく、ソーシャルワーカーとして、臨床と研究を続けながら、ろう者・難聴者の生活の質の向上に少しでも力を尽くしたいと思っております。日本とアジアについては、これから高等教育機関やろう者社会の団体との接触を通して、ネットワークを作り、活動の幅を少しずつ広げていければと思っております。その過程で新たな刺激やヒントを頂きつつ、僕自身も成長、進化していければと思っております。

大杉:博士号を取得されたこと、おめでとうございます。池上さんの決意を確かにいただきました。日本の地域とろう者社会に根ざした社会資源が、池上さんの実践されるソーシャルワークの良い点を取り入れて、さらに発展していくことを願います。池上さん、頑張ってください。

参考文献

  • 日本ASL協会聴覚障害者海外奨学金事業10周年記念報告誌 (非売品) に掲載された池上真「障害者の自己実現と社会参画の実現に向けて〜ADAの考察を通して〜」
  • 日本ASL協会会報Vol.8 No.6, Vol. 9 No.1,2,4,5, Vol.10 No.1に連載された池上真「フィラデルフィア便り」

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