序にかえて
学びの20年 – 世界で学んだろう・難聴者が語る今後のろう社会とこれから
元号が平成だった2004年に始まった日本財団聴覚障害者海外奨学金事業は、令和となった2025年に20周年という節目を迎えました。この20年の間に、多くのろう・難聴者が日本から羽ばたき、世界各地で学び、それぞれの分野で専門性を磨いてきました。日本財団や日本ASL協会が丁寧に蒔いてきた一つ一つの種は、現在、社会のさまざまな領域で少しずつですが、芽を咲かせてきています。教育、福祉、心理、医療、言語、情報保障、ICT、芸術、政策など、その歩みは多様でありながら、日本のろう社会と広く市民社会全体に新しい視点と実践をもたらしつつあります。
しかし、この20年の蓄積の意味は、単に海外で専門知識を身につけた人材を育成したということだけにはとどまりません。本奨学金事業が生み出してきた最も重要な成果は、ろう・難聴者自身が「知の主体」として社会を捉え、物語を紡ぎ、そして水面を波打つようにろう者の生活向上に貢献する営みを育んできたことに尽きます。
これまで多くの社会制度や学問体系は、音声言語を前提とした枠組みの中で形成されてきました。その中で、ろう者はしばしば「支援を受ける存在」として語られ、当事者自身の経験や言語が知の源泉として扱われることは決して多くありませんでした。しかし、手話言語を第一言語とするろう者や手話を使う難聴者の視点は、社会の見え方そのものを変える力を持っています。米国をはじめとする世界各地のアカデミアやろう社会で学んだ奨学生たちは、その視点をもとに、ろう者の生活に関わる様々な領域に新しい問いを投げかけ続けています。
日本手話や日本語が通じない海外での学びは、単なる知識の獲得で形容できるものではありません。異なる文化や社会制度の中で、日本人としての自らの言語とアイデンティティを見つめ直し、ろう者として私たちが過ごしている現世界を理解する枠組みを再構築する経験とも言えるでしょう。その経験は、留学完了後の活動の中で、音声社会を中心とした社会に対する批判的視点や新しい実践として現れてきました。ろう教育のあり方を問い直す取り組み、手話の価値を再評価する研究、医療や福祉の現場における当事者視点の導入、情報保障のあり方の再検討、さらには芸術や文化の領域における表現の創出など、その実践は多岐にわたります。
本記念誌では、10周年記念誌のような個々の活動報告ではなく、「専門領域」という視点から、この20年の歩みを振り返ります。教育、言語、福祉、情報保障、アート、クロス領域など、多様な分野で活動する奨学生がテーマごとに集まり、座談会形式でそれぞれの現場から見える課題と可能性を語り合いました。そこには、ろう・難聴者が専門職として、一人の市民として社会と向き合いながら、今まさに、自らの経験と言語を基盤に知を生み出していく姿なのです。
ろう社会の未来は、誰かの手によって与えられるものではありません。それは、ろう・難聴者自身が語り、考え、実践する中で形づくられていくものです。本記念誌に収録された対話は、その営みの一端であり、同時にこれからの社会への問いでもあります。
この20年の歩みの先にあるのは、ろう・難聴者が社会の周縁に位置づけられる存在ではなく、言語と文化を基盤に知を創り出し、社会を構想する主体として生きる未来です。本記念誌が、その歩みを記録するとともに、次の世代が新たな知と実践を生み出していくための礎となることを願っています。
日本財団聴覚障害者海外奨学金事業同窓会を代表して
20周年記念誌編集委員
鈴木美沙・高山亨太・福島愛未・牧谷陽平・皆川愛





